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よみもの : 新近江名所図会 :
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新近江名所圖会第201回 草津市北西部に集中する古代寺院群 ―花摘寺廃寺・観音堂廃寺等―
草津市北西部の下物(おろしも)町から北大萱町にかけての一帯は、7世紀後半代の白鳳文化期に造営された古代寺院跡が集中する地域です。県道26号(通称浜街道)に沿う南北2㎞の範囲内に,実に7か所も古代寺院推定地があり、全国的に見てもかなり特殊な地域といえます。
ただ、発掘調査によって寺院跡の存在が確実視されているのは、宝光寺廃寺(北大萱町)と花摘寺廃寺(下物町)・観音堂廃寺(下寺町)くらいで、その他については、寺院跡によく見られる南北方向の土地区画痕跡や古瓦が散布することから寺跡の可能性が推定されているのですが、実のところそれらの存在は不確かです。
さて、この一帯が当時の琵琶湖岸に近い場所であることからすれば、湖上交通に関わった有力豪族によって寺院群が造営されたと推測できます。また、琵琶湖の対岸には、これらの寺院群が建立された時期とおおむね同じ頃に天智天皇の近江大津宮(667~672年)が営まれていることから、大津宮と寺院群との密接な関係を考える説もあります。
それでは、当地で実際に見られる、古代寺院に関わる遺物を紹介しましょう。寺院は瓦を葺いた大規模建造物であるので、柱は大きな石を基礎としています(礎石)。この礎石をいくつかの遺跡で目にすることができます。
まず、下物町の天満宮境内には付近から出土した花摘寺廃寺の礎石が多く集められています。手水鉢に転用されているのは、長径1.8mもある大型のもので、塔の心柱を支える礎石(塔心礎)なのでしょう。(写真1)また、この横に屋根のような形をした石造物があります(写真2)。これは露盤と呼ばれるもので、塔の最上部に使われる部品です。一辺1.8mで中央に心柱の上端を挿入するための直径60cmの孔があけられています。孔から四隅に向けて美しい稜が掘り出された優品です。このような重量物を地上数十メートルの塔のてっぺんに据え付けていたのですから、当時の技術力には驚かされます。
次に、花摘寺廃寺の南西に接して観音堂廃寺があります。下物天満宮から400mほど離れた下寺町常教寺の門柱横と、常教寺の南の観音堂・天神社境内にひとつずつ礎石を見ることができます(写真3)。ともに柱の滑り止め用の直径20cmの窪みが彫られています。
また、下物町の東に隣接する芦浦町には、豊臣秀吉により船奉行に任命され、琵琶湖水運の要として秀吉の天下統一にも関わったことで知られる芦浦観音寺があります。観音寺は近世城郭のような石垣で囲まれていますが、正面入り口へ向かう石垣にも観音堂廃寺と同様に円孔をあけた礎石が転用されています。この礎石がもともと観音寺境内付近にあったのか、それとも他の場所から運ばれてきたのかは明らかではありません。
今はひなびた田園風景を呈していますが、1200~1300年前の当地は当時の最先端技術を駆使して造営された寺院がいくつもそびえたつ豪壮な景観を見せていたのです。ぜひ現地へ行かれ、往時の寺院の姿を想像し、またそれが造営された時代背景に思いをはせられてはいかがでしょうか。
(平井美典)