形代(かたしろ)は、まつりのときに神の依代として使われるものです。高島市にある上御殿遺跡では、奈良時代から平安時代にかけて使用された木製の形代が数多く出土しています。このうち、人形代(ひとかたしろ)については以前(第156回)に紹介しました。今回は、馬形代(うまかたしろ)について紹介します。馬はいろいろな祭祀の中に登場する動物です。焼物の土馬や、木の板に描かれた絵馬とともに、馬を模した馬形代は祭祀具として知られています。
馬形代は、人形代と同じく薄い板を使い、数か所に切込みを入れることで、側面からみた馬の姿を作りだすことが一般的です。足の表現がないものが多いようですが、上御殿遺跡から出土した馬形代には、別づくりの短い脚4本を付けるタイプの例もあります(写真1)。
頭や胴などの部分はかなり抽象化されているため、それとはわかりにくい形をしていますので、「どこが馬なん?」という感想を多くの方は持たれるようです。よく見ると、頭の部分は下向きに突出した形をしており、先端に小さな切り込みを入れて口を表現しています。また、尻尾の方は、上側や下側を斜めに切って尖った形を作りだしています。その間の胴体は、鞍などを表現しない裸馬(写真2)や、鞍を表現するもの(写真3)もあります。このように説明すると、なんとなく馬に見えてきたでしょうか?上御殿遺跡の出土品のなかには、墨で目やたてがみを描いた例や、切り込みでたてがみを表現する例など、さらに手を加えたものも見つかっています。
馬形代が祭祀の中で使用されたのには、主にふたつの役割が考えられています。ひとつは、身を清める祓(はらえ)の祭祀の場において、罪や穢れを移した人形代を別の世界へと運ぶ乗り物としての役割があったとするものです。古代の人々にとって、馬は身分や地位の高い人の乗り物であったことから、特別な能力を持った動物と考えられていたのはないかと考えられています。馬形代は人形代とともに出土することが多く、山形県酒田市の俵田(たわらだ)遺跡で見つかった平安時代の祭祀跡では、人形代を納めた土器の周囲に馬形代が立てられていた様子が出土状況から復原されています。上御殿遺跡でも川の中から両者が一緒に出土していることから、祓の祭祀に使用された可能性が高いと考えられます。
もうひとつは、神様への捧げものとして使用されたとするものです。馬は水神との関わりが深く、文献史料には雨乞いをするときなどに馬を神様に奉じた記録が残されています。雨乞いの際には黒毛馬、止雨の際には白毛馬を奉じたという記事も見られ、祭祀の目的に応じて異なる種類の馬が使用されたこともあったようです。長野県の屋代(やつしろ)遺跡群では、7世紀末から8世紀前半を中心とする木製祭祀具が数多く出土しており、川の中でまとまって廃棄された状況がいくつも確認されています。その中でも、7世紀末に廃棄された木製祭祀具は、人形代を伴わずに馬形代だけを使用した状況がうかがえるので、祓の祭祀ではなく川の神への捧げものではないかと推測されています。また、長浜市湖北町の琵琶湖岸にある尾上遺跡からは、「黒毛□」と墨書された平安時代前半の馬形代が出土しています。人形代と一緒に出土しているものの、馬の種類が墨書されていることから雨乞いに使用されたのではないかと考えられるのです。
県内では馬形代の出土事例はあまり多くないので、上御殿遺跡から出土した馬形代は当時の祭祀を考える上で、貴重な資料として注目されます。
(中村智孝)
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