琵琶湖の一番北の集落、塩津は北陸から都(京都)に送る物資を琵琶湖の水運に乗せるための「港まち」として栄えていました。その繁栄ぶりは、近年の発掘調査によって次々と明らかになり、注目されているところです。
平安時代の法令書である『延喜式』にしるされた「塩津神社」が現在の塩津浜集落の東にあります。この神社の明治時代の様子が『近江国農工商便覧』の挿絵に描かれています(図1)。神社の南側には琵琶湖が広がっていて、湖面には多数の帆船が浮かび、蒸気船の姿も見えます。画面左には塩津浜の集落の一部が描かれています。神社へ参詣する多数の人々も描かれており、塩津が船の出入りで賑わい、神社への崇敬も多く集めていた様子がわかります。
鳥居の左には「郷社鹽津神社」と彫られた社号標が描かれています。この標石は今も同じ位置にあります(写真1)。それ以外にも、本殿・鳥居・石段・手水舎など今と変わらないものが多く、この絵がかなり忠実に当時の様子を描いたものと推測できます。
明治末期に本殿に向かう石段あたりから南に向かって撮影された写真が残されています(写真2)。そこには、石の鳥居・手水舎が写っていますし、鳥居横には図1と全く同じ枝振りの松があるのです。『近江国農工商便覧』の挿絵がいかに写実的であったかがわかります。
今回注目したいのは、鳥居から出たところに描かれている突堤です。石垣で築かれて琵琶湖に突き出した様子は草津の矢橋の突堤によく似ています。この神社は船で直接参詣することのできる神社だったのです。
近年の発掘調査では平安時代の神社が見つかっています。場所は大川の河口で、塩津神社の西約500m付近にあたりますから、今の神社の場所とは異なります。この神社も水運業者の崇敬を集め、正面鳥居をくぐる正式な参拝ルートは湖上の船からアプローチするものでした。
場所が違うとはいえ、船で参るという形が今の神社にも残されたのでしょう。
その突堤の先端に「石灯籠」があったことが挿絵にも写真にも見ることができます。参詣者の道案内をしていました。今では琵琶湖は埋め立てられ、突堤は道路の下となって見ることはできません。「石灯籠」はというと、境内の拝殿の西に移設されています(写真3)。自然石の形を巧みに利用したその美しい造形と明かりで多くの人々を迎えた石灯籠は、今は苔むしてひっそりと佇んで時の流れを見ています。
(横田洋三)
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