調査員のおすすめの逸品 №311 地味だけど重要な遺物―関津城と生津城から出土した壁土―

 一般に「お城」といえば「瓦葺きで白壁の天守があって、石垣があって…」と、姫路城や彦根城などの姿をイメージされる方が多いと思いますが、これらは「近世城郭」と呼ばれる日本の築城レベルが到達点に達した段階のお城で、数の割合から言えば、戦国時代以前の瓦葺きの天守や石垣を持たない土づくりのお城が圧倒的多数を占めます。ところで、冒頭に「…白壁の天守が…」と書き始めましたが、戦国時代に築かれた土づくりの城郭に伴う建物については、現存するものがないため実はよくわかっていないのです。
 そこで今回は、私が調査に関わった関津(せきのつ)城と生津(なまづ)城から出土した「壁土」にスポットを当てたいと思います。
 

写真1 関津城出土の壁土

写真1 関津城出土の壁土

 関津城は大津市南部、田上(たなかみ)地域の瀬田川東岸部に立地します。また、生津城は大津市の比叡山と比良山の間にある伊香立(いかだち)地域に築かれています。いずれも城跡の遺跡として周知はされていましたが、発掘調査が実施されるまでは詳細が不明であり、城郭研究者からもそれほど重要視されているとは言い難い状況でした。ところが調査の結果、比較的小規模な城郭であるにもかかわらず、16世紀中頃から後半を中心時期とする本格的な城郭施設を備え、先進的な技術も導入されていたことが明らかとなりました。発掘調査によってノーマークだった城郭の具体的な様相を示す遺構や遺物が数多く見つかったのです。
 そのうちの一つに「壁土」を用いた礎石建物があります。(写真1)関津城では内部からの出火により焼失した礎石建物が見つかっており、米を主体とする多量の炭化した穀物が出土したことから穀物を収蔵していた蔵であったことがわかりました。この建物からは焼け落ちた壁土が多量に出土していることから、土壁造りの「土蔵」であったことも明らかとなりました。建物の基礎には地覆石(じふくいし)と呼ばれる構造で石材を四角く敷き並べ、その上に土壁を立ち上げていく工法で建物が造られています。地覆石の上には一定の間隔で配置された炭化した柱そのものも残存していました。壁土には藁などが混ぜ込まれているものが多く、外面にはムシロ状の編み物を押し当てたとみられる網目が残っているものもありました。こうした建物は戦国時代の城郭では見つかっていないことや、構造が近世になって広く普及していく密閉性の高い土蔵に近い建築技法であることから、倉庫建築の変遷を考える上でも貴重な事例と言えます。
写真2 生津城出土の壁土

写真2 生津城出土の壁土

 また、生津城でも建物規模や礎石の配置から蔵と考えられる礎石建物が見つかり、その周囲を巡る区画溝から焼けた壁土が出土しています(写真2)。壁土は関津城例と同様に藁などが混ぜ込まれていたことが壁土の破断面などから確認できます。一方で、網目状の圧痕などはありませんでしたが、1面が平坦な面を持ち、その裏側に細い棒状の部材に圧着させていた痕跡が残っています。同じ壁土個体の裏面で棒状の圧痕が並行しているものが大半であることから、内部材を両側から挟み込む形で土壁を形成していたと考えられます。
 このように、「壁土」を伴う建物が守護大名などの有力者の城郭・居館ではなく、今まで注目されてこなかった在地土豪クラスの小規模な城郭において出土したことに、私は意義を感じています。決して煌びやかで見栄えのするものではない地味な遺物かもしれませんが、「小規模な城郭と侮るべからず」と先入観でものをみてはいけないことを示してくれる重要な遺物として、これからも関津城や生津城の「壁土」をアピールしたいと考えています。
 
 今回ご紹介した関津城の壁土は、安土城考古博物館で令和3年7月17日(土)~9月20日(月・祝)まで開催されている、『発掘された近江 ‐関津遺跡と関津城跡‐』で展示されています。関津城や麓の関津遺跡で発掘された多様な出土品とともに、是非ともじっくりご覧ください。

(小林裕季)
◇生津城の地図

◇関津城跡の地図

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