調査員のおすすめの逸品 №299 登場と消滅の謎-土偶と土版

写真1 後川遺跡土版

写真1 後川遺跡土版

 これまで「調査員のおすすめの逸品」では、自ら発掘調査を行った遺跡から出土した土偶を取り上げてきました。今回はその土偶シリーズの最後の逸品です。
 今回紹介する逸品は、近江八幡市後川(うしろかわ)遺跡から出土した縄文時代後期後半(約3,500年前)の土版(写真1)と土偶の脚(写真2)です。一つ目は、分銅形土偶の末裔ともいうべき土版と呼ばれるものです。この土版は、楕円形を呈し、表裏とも、線で上下に半円を描き、その中に縦2本の線を横の3本の線で分断しています。約6cm×約5cmの大きさで、手のひらサイズのものです。同じような縦線を横線で分断するような文様をもつ石製の遺物も愛知県や島根県で出土しています。
 滋賀県を含めた西日本の縄文時代後期前半の土偶は、江戸時代に両替商で使われた後藤分銅に類似した形しているので、分銅形土偶と呼ばれています。頭部や顔の表現を省略した土偶です(写真3)。分銅形土偶は、乳房と正中線のみを表現する単純な人体の表現の土偶です。写真1と写真3を比べてみてください。全く似ても似つかないものでものです。最初に分銅形土偶の末裔と書きましたが、2つの遺物を比べて、土版が分銅形土偶から変化して出来たと想像できますか?実は分銅形土偶は、一緒に出土した土器を手掛かりに年代の古い順に並べると、写真1のような大変単純なものから、新しくなると多くの線で飾ったり、九州地方では、顔を描いたりするようになります。

写真2 後川遺跡人形土偶脚

写真2 後川遺跡人形土偶脚


 
 今回の土版は、一緒に出土した土器の年代から多くの線で装飾された分銅形土偶と同じか、やや新しい時期のものであることが判っています。これらを時代の古い順に並べたものが、図1です。図を左から見ていくと、最左の土偶は乳房を表現し、太い正中線から正中線が細い線に変化し(写真1)、分銅形を保ちながら、乳房の表現が欠落し、線だけの装飾がある分銅形土偶へ、そして、分銅形の象徴であるくびれがなくなり、人体表現のない装飾性のある土版(写真3)へと形が単純化します。あわせて遺物の性格も変化していたと考えられています。一方、この考えに対して、人体表現のある土偶と人体表現のない土版とでは、それぞれの役割が異なるので、土偶から土版は生まれないという意見もあります。果たしてどちらが正解なのかは縄文人のみが知るところです。近畿・中四国地域では、後川遺跡と同時期の後期後半には、広く、岩版や土版が作られ始めます。後川遺跡出土の土版もこうした近畿地方だけではなく、広い地域との交流の中で生み出されたものと考えられます。
 2つ目に紹介する遺物は、土偶の脚です。土偶の脚の破片のみで、全体像はわかりませんが、手足や頭のある人の形をした土偶の一部であると考えられます。こうした頭から足の先までの表現がある人形土偶は、東日本地域で発達した土偶で、頭部や手足の表現のない分銅形土偶とは対照的です。
図1 分銅形土偶の変化

図1 分銅形土偶の変化


 今回出土した土偶の脚は、小さな足に肉厚のあるふくらはぎが付いています。このような肉厚のあるふくらはぎをもつ土偶は、愛知県豊田市今朝平(けさだいら)遺跡から出土した顔面表現を欠く人形土偶と類似しています。また、近畿地方西部の兵庫県佃遺跡・生田遺跡からも出土しています。
 このような顔面表現を欠く人形土偶は東海地方で生み出され、人形土偶がなかった近畿地方西部まで作られるようになります。こうした東からの人形土偶の伝来が、分銅形土偶を用途が違う土版へと変化させたのかもしれません。これ以降、近畿地方では人形土偶を普遍的に作るようになります。一方、土版も同時期に作られますが、これ以降には、作られなくなります。 
 土版は、なぜ、後期後半に出現し、後の時代には作られなくなるのか。その用途と共になぞの多い遺物です。(中村 健二)
写真3 仏性寺遺跡(高島市)出土土偶

写真3 仏性寺遺跡(高島市)出土分銅形土偶

≪引用文献≫
図1「土偶とその情報」研究会編2000『土偶研究の地平(4)』 勉誠出版

≪参考文献≫
・滋賀県教育委員会・財団法人滋賀県文化財保護協会1979「高島郡マキノ町仏生寺遺跡」『ほ場整備関係遺跡発掘調査報告書』Ⅵ-3
・滋賀県教育委員会・財団法人滋賀県文化財保護協会1996『後川遺跡』長命寺(蛇砂川)中小河川改修工事関連埋蔵文化財調査報告書6

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