「調査員の逸品」シリーズの趣旨からは少し逸脱しているかもしれません。しかも30年近く前の個人的な昔話ですから、ささやかなエピソードとしてお読み下さい。
山口百恵が白いマイクを置いて私たちの前から姿を消した1980(昭和55)年、当時私は小学6年生でした。6年生といえば授業で歴史を学び始める年齢です。子供の頃から年寄りくさいところのあった私はご多分漏れず、戦国時代には興味があったのですが、旧石器時代や縄文時代・弥生時代などは全くイメージが湧かず(せいぜい園山俊二の『はじめ人間ギャートルズ』のイメージ)、歴史はどちらかというとあまり得意ではない科目でした。いきおい、授業中は社会科の教科書に載っている偉人達の顔にメガネとヒゲを描き込んでほくそ笑む、そんな陰気な少年だったのです。

火の鳥 黎明編
火の鳥を求めるためにクマソを滅ぼしたヤマタイ国も、騎馬民族の高天原族によって滅ぼされてしまいます。また、主人公の猿田彦・ナギも物語の終盤には、あっけなく死んでしまいます。個人の生と死を超越した、もっと大きな生命のストーリーがここにはあるのですが、小学6年生の少年には予定調和的な終わり方をしないという意味で、何とも後味のすっきりしない、複雑な作品だった印象があります。しかし、それ故にこの作品に惹かれ、その後、「乱世編」や「太陽編」、「鳳凰編」などをむさぼるように読み続けていき、手塚マンガを足掛かりに歴史に対する愛着を深めていきました。
歴史学的に見れば、邪馬台国と大和朝廷がごっちゃになっている、そもそも騎馬民族征服王朝説・神武東征伝説など……と、目くじらを立てそうになるところが満載ですし、私自身も歴史的な事実と照合して物語の背景の誤謬に気付くのはもう少し後のことですが、『火の鳥』をきっかけに私は歴史に愛着を持つようになり、結果的に今の職業を選択するところまでいってしまいます。そういう意味で、この作品は私の人生を決めた一冊であり、今回このコーナーで逸品として紹介することにしました。
手塚マンガは、時が流れても古びない魅力があります。今回、この原稿を書くに当たって、すでに当時のマンガ本は処分してしまっていたので改めて買い直したところ、写真のように小学6年生の息子がめざとく見つけ、むさぼるように読んでいました。あれから30年、時を経て、再び歴史少年は生まれるのでしょうか?それと同時に私たちは、発掘によって得られた成果を夢のある話として子供達に提示できているのだろうか、そんな自問を繰り返しています。
(松室 孝樹)