
鋳型(上下)
それは何か。数十年から数百年経過した時代や時期の全く違う遺物が、同じような場所で、同じような出土状況で出てくるのです。発掘していると単なる川跡にしか見えませんが、現在には伝わっていない何か目印になるようなものがあったのではないかと想像したくなります。こうした出土状況を示す遺物の中に、弥生時代から古墳時代前期頃と考えられる、日本ではじめて出土した双環柄頭短剣(そうかんつかがしらたんけん)の鋳型があります。

鋳型出土状況
こうした鋳型じたいの出自について考えることは、上御殿遺跡のみならず日本列島規模での検討課題ですので、ひとまず置いておき、遺跡での出土状況に立ち戻って見てみますと、あたかも川に向かって鋳型を置いたような状況でした。鋳型以外は何もなく、何らかの祭りに使われたと考えられます。すぐ近くからは、古墳時代中期から後期にかけての土器が古墳の周溝の中から出土しており、供献土器(お供えものをいれた土器)と考えられます。この鋳型はいつのものなのか、今後の研究によってより厳密な時代・時期が明らかになると考えられますが、鋳型より後の時代になっても同じように川にたいして土器などをお供えする祭りを行っていたことがわかります。おそらく鋳型は、上御殿遺跡で行われる川にたいする最初の祭りにともなうもので、この川が平安時代まで祭場として使われる契機となったものです。
このように連綿と続く祭場と、そこで用いられた遺物も、平安時代以降に農地化が進んだために、現在には伝わらなかったといえます。
この鋳型は、ある一時代の日本列島という大きな枠組みのなかで重要な遺物というだけではなく、高島地域の千年以上にわたる川をめぐる祭りの起源を知る手がかりとしての重要な意味も持っているのです。
(中村健二)