新近江名所圖会 第339回  信長が見た光景-近江八幡市安土城内摠見寺跡の三重塔と楼門

写真1 摠見寺跡 三重塔

写真1 摠見寺跡 三重塔

 天下人となった織田信長は、天正3年(1575)11月28日に家督と岐阜城、領国の尾張・美濃を嫡男の信忠に譲ると、翌年正月から近江琵琶湖畔の安土山に新たな城の普請をはじめます。そして、同7年に天主、同9年に御殿など主要な施設を完成させると、翌年正月に一門や家臣だけでなく近隣の大名や小名を招いて城内のお披露目をします。その時のその様子は、織田信長の一代記である太田牛一『信長公記』巻15に

「(天正10年)正月朔日、隣国の大名・小名御連枝の御衆、各在安土候て、御出仕あり。百々の橋より惣見寺(摠見寺)へ御上がりなされ、生便敷(おびただしき)群集にて、高山に積み上げたる築垣を踏みくずし、石と人と一つになってくづれ落ちて、死人もあり。手負は員を知らず。刀持ちの若党共は、刀を失い、迷惑したる者多し。(中略)この度は大名・小名によらず、御礼銭百文づつ自身持参候へと、堀久太郎・長谷川竹両人を以て御触れなり。惣見寺毘沙門堂御舞台見物申し、おもての御門より三の御門の内、御殿主の下、御白洲まで祗候仕り(後略)」

とあり、大名や家臣だけでなく多くの庶民までもが年賀に押し寄せたために石垣が崩れて死傷者がでたこと、信長みずから参賀者から身分を問わず礼銭を受け取り惣見寺境内だけでなく天主付近まで見学させていたことが記述されています。
信長は、城内最高所に位置する天主と城内への西側からの入り口である百々橋口との中間に、山門、三重塔、本堂、鐘楼、庫裏などいわゆる七堂伽藍のほか鎮守(熱田社)や能舞台まで備えた摠見寺を創建します。
 天正10年(1582)6月2日、信長が本能寺で明智光秀に殺害されると、安土城は数日後に放火されて天主や御殿は焼失しますが、その後も信長の後継者の居城として維持されます。しかし、織田氏に替わって天下人となった羽柴秀吉は、天正13年(1585)に安土城を廃城とし、城内の施設は八幡山城に移しますが、摠見寺はそのまま残され、信長の菩提寺としてその後も存続しています。

写真2 摠見寺跡 楼門

写真2 摠見寺跡 楼門

◆おすすめポイント
 残念なことに、信長が創建した摠見寺は、安政元年(1854)の火災で堂舎の多くを焼失してしまいました。しかしながら、金剛力士立像を安置した楼門と三重塔は焼失を免れたため、今も往時の姿をとどめています。また、摠見寺跡からの眺めは絶景です。
 摠見寺跡に立つと、信長が何ゆえこの地に城を築いたのか、何ゆえ城内に寺院を建立したのか、信長は宗教に否定的なのか、神になろうとしたのか、色んな疑問、通説とは違った信長像がみえてくるのではないでしょうか。
 安土城跡は直線の大手道、伝黒金門、本丸御殿の礎石、天主石垣などが有名な観光スポットとなっていますが、信長が在世時の姿が垣間見える摠見寺跡にも是非ともお立ち寄り下さい。

◆周辺のおすすめ情報
 周辺には、信長が建立した浄厳院(本堂と楼門は重要文化財)、信長も立ち寄った桑實寺(本堂は重要文化財)でも当時の姿を見学することができます。足を延ばしてみて下さい。
                                   
◆アクセス
【公共交通機関】JR琵琶湖線「安土駅」を下車 徒歩約20分(駅前にレンタサイクル有)
【自家用車】名神高速道路「八日市I.C」「蒲生S.I.C」・「竜王I.C」より30分

(藤﨑髙志)
       
安土城跡 近江八幡市安土町下豊浦

≪参考文献≫
奥野高広・岩沢愿彦校注(1999)『信長公記』角川書店

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