調査員のおすすめの逸品 №261 持ち物には名前を書きましょう-彦根市佐和山城跡出土刻書を持つ硯-

写真1 佐和山城出土刻書硯

写真1 佐和山城跡出土刻書硯


 彦根市に所在する佐和山城跡の発掘調査で見つかった遺物については、これまでにも何度か紹介してきました(第122回 戦国時代の「磨石」第147回 犬形土製品第236回 桐紋の金具)。今回紹介する裏面に刻書を持つ硯は、佐和山城の城下町跡で見つかったのですが、そこに住んでいた町人が持っていたのではないかと思われるものです。

 この裏面に刻書を持つ硯は、城下町で見つかった、素掘りの井戸(2-1区SX02)の中から出土しました。この井戸のある地点は、城下町のメインストリートである本町筋に近く、本町筋に面していた町人(商人?)の屋敷地に設けられたものと考えています。井戸の平面形は楕円形を呈して長軸2.0m・短軸1.5mを測り、ほぼ垂直に掘り込まれていました。深さ約2.3mまで掘削したのですが、素掘りということもあって崩れてくる危険性が生じたため、それ以上の掘削は中止したため底面まで掘りきることができませんでした。そのため最下部の井戸枠の存在などについてはわかっていません。
 この井戸が使われた時期は、硯と一緒に出土した土器の時期から、16世紀末~17世紀初頭と考えられます。すなわち、石田三成が佐和山城の城主であった頃に使われ、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦を経て井伊直政が城主となったのちに、佐和山城が廃城となった慶長11年に廃絶された井戸と考えることもできます。なお、この佐和山城城下町跡の発掘調査では5基の井戸が見つかりましたが、いずれも素掘りで、石や木板で井戸枠を組んだものはありませんでした。地盤がある程度堅いことから素掘りの井戸とすることも可能だったのか、あるいは城下町の建設が突貫工事だったためにあまり手間をかけられなかったのかもしれない、とも考えられます。
 さて、今回紹介する裏面に刻書を持つ硯ですが、正面右下が少し欠けているだけで、比較的残りの良い状態です。形状は長方形で、大きさは縦15.4cm・横6.3cm・厚さ1.4cm・残存重量270gです。素材には珪質粘板岩を用いています。裏面の刻書は2行に渡ります(図1・写真1)。
 1行目は「内町□□長□」と読めます(□は判読不能)。6文字のうちの半分が読めないので、書かれている内容はよくわかりませんが、最初の「内町」は調査地の地名を表しています。すなわち、彦根市佐和山町から同鳥居本町にかけて広がっている調査地に隣接する集落を、現在でも小字「内町」といっていますから、当時からそのような呼び名だったとわかります。4文字目はまだれを持つようにもみえるので、4・5文字目はもしかすると元号の「慶長」かもしれません。ですが、前後の文脈から考えると確証はありません。

図1 佐和山城出土刻書硯

図1 佐和山城跡出土刻書硯


 2行目は「〆墨拾八文 佐門」と読めます。やはり、書かれている内容はよくわかりませんが、「拾八文」は値段を示していると考えるのが妥当ではないでしょうか。当時多く流通していた貨幣は、永楽通寶などの中国大陸からの渡来銭でしたが、それら1枚が1文でした。「拾八文」=18文は、現在の価値でいうところの1,000円くらいでしょうか。シンプルな形状の規格品と思われますが、現在とは違って硯も一つ一つ手作りでしょうから、これが高いのか安いのかよくわかりません。なお、某大手通販会社のサイトを覗くと、現在でも1,000円で買える硯は限られるようです。あるいは「墨」を生かすなら、「拾八文」が重さを表すと考え、墨18文分(一文銭18枚文の重さ=約50g)と交換、あるいは墨18文分(この場合は値段・重さどちらでも解釈可能)を一緒に買ったとも考えられます。最後の「佐門」ですが、これは名前と考えてよいようです。
 
以上のことをつなぎ合わせますと、「内町の佐門が慶長□年にこの硯を十八文(あるいは墨十八文分)で手に入れた。」という趣旨のことを書いたのではないか、と推測されます。それぞれの情報が順番通りではないので少々強引な気もしますが、一つの解釈案としてはそれなりに意味が通っているので良いのではないかと考えています。すなわち、所有者が名前を記すとともに、所有の謂われを書いたものと考えられるのです。この記事を読まれて、ほかに解釈案がある方は、ぜひ教えていただければと思います。
 発掘調査で中世・近世の遺構を掘削すると、硯が出土することは、私の経験からすれば、頻繁ではありませんがそれほど珍しいことでもありません。今回紹介した裏面に刻書を持つ硯が出土した井戸からも、もう一つほぼ同じ形状・材質の硯が出土しています。ただしこちらは墨を擦る陸部分は本来1.3㎝の厚みがあるのですが、よく墨を擦ったのでしょう、一部の厚みが0.5㎝にまで擦り減っていました。長く大事に使われたと考えられます。

写真2 高野城出土刻書硯

写真2 高野城遺跡出土刻書硯


ただ、刻書を持つ硯となると、このほかには甲賀市甲賀町高野城遺跡で行った発掘調査で出土した硯を知るのみです(図2・写真2)。形状は長方形で、大きさは横6.0cmです。少しくぼんだ裏面に刻書が見られますが、上部の海部分が大きく欠けているため、残りはあまりよくありません。しかし、4行に渡って比較的判読しやすい文字が刻まれています。1行目は「[  ]東甲賀郡」、2行目は「[ タ]カノムラ」、3行目は「[  ]山倭現化」、4行目は「[  ]持王之」と読むことができます。1行目・2行目は所有者の住処(=調査地の現甲賀市甲賀町高野)を記したと思われますが、かつて甲賀郡が東西に分かれていた時期のものであることを示すと考えられます。3行目は倭姫や倭武伝説を(現化とは姿を変えてこの世にあらわれること)、4行目は仏典故事を記したものと思われ、報告書執筆者の言葉を借りれば、「所有者の才子振りが伺えるものである」といえます。
 佐和山城跡の刻書硯と高野城遺跡の刻書硯に共通するのは、地名が書かれた点であり、どちらも所有者の住処を記したものと思われます。さらに、佐和山城跡の刻書硯に書かれていた所有者名も、同じ感覚からすれば、高野城遺跡の刻書硯に同様に書かれていたと推測されます。土器底部の墨書などに人名が見られることは古代などではよくあることですが、中世・近世で名前などを書いた遺物について、あまり私は類例を知りません。偶然かもしれませんが、忘れ物・落とし物になっても届けられるようにというほど、これらの硯が大事に扱われていたことを示すのではないでしょうか。それは、佐和山城跡の陸が擦り減った硯にも共通する気持でしょう。一方で、佐和山城跡の刻書硯が入手した値段あるいは状況を書き、高野城遺跡の刻書硯が教養ある文章を書いているのは、商人と文人の興味の違いを示しているように感じられます。

図2 高野城遺跡出土刻書硯

図2 高野城遺跡出土刻書硯


我々が普段行っている遺跡の発掘調査では、文字資料が見つかりますと、このようにダイレクトに情報を得ることができるので、とても重宝することがままあります。ただし、その内容は書いた者が意図的に変えることもできるので、慎重に取り扱う必要があるとも言えます。これらの硯のような、自分の持ち物に刻まれた文字には、備忘録の意味合いもあるでしょうし、そのような意図はないとは思いますが。

佐和山城跡の山上にある本丸などの曲輪群は、現在でも見学することができます。新近江名所図会第38回でも紹介していますが、龍潭寺側から登るルートがおすすめです。歴史の表舞台に出てくる城跡を歩いて戦国武将たちに思いをはせ、小中学生の夏の自由研究の題材にしてみてはいかがでしょうか。なお、佐和山城跡は清凉寺や龍潭寺などの所有地であるため、マナーをもって行動する必要があります。また、足場が悪いところもありますので、子供だけで決して上らないようにしてください。(小島孝修)

《参考文献》
・滋賀県教育委員会・財団法人滋賀県文化財保護協会2008『高野城遺跡』
・滋賀県教育委員会・公益財団法人滋賀県文化財保護協会2013『佐和山城跡』

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